キリスト教信仰の

中身が分かるコース

                    ~41個の問答と18回の授業~

 

                    しかし、あなたは、自分が学んで確信しているところに、いつもとどまっていなさい。あなたは、それをだれから学んだか知っており、また幼い時から、聖書に親しみ、それが、キリスト・イエスに対する信仰によって救に至る知恵を、あなたに与えうる書物であることを知っている。聖書は、すべて神の霊感を受けて書かれたものであって、人を教え、戒め、正しくし、義に導くのに有益である。それによって、神の人が、あらゆる良いわざに対して十分な準備ができて、完全にととのえられた者になるのである。

     (テモテ手紙(2) 3:14-17

                            

 

                    ★★★★★ もくじ/41個の問いかけ

1 あなたは 何を信じますか。

2 あなたは なぜ 神のことが分かるのですか。

3 神は たくさんおられるのですか。

4 あなたは神からの救いとともに、ほかからの救いも望みますか。

5 あなたは すでに救われていますか。

6 どうしてですか。あなたは罪人ではないのですか。

7 神は正しいかたで、罪を憎むのではありませんか。

8 主イエスは、どんなかたですか。

9 主イエスは、いつから おられますか。

10 いつから人間になられましたか。

11 主イエスは、なんのために神でありながら人間になられたのですか。

12 主イエスは、父なる神に逆らったことはないのですか。

13 イエス・キリストは どんなかたですか。

14 なぜ 主イエスをキリストとおよびするのですか。

15 主イエスのつとめは何ですか。

16 主イエスの預言者のつとめは何ですか。

17 主イエスの大祭司のつとめは何ですか。

18 主イエスの王のつとめは何ですか。

19 あなたはイエス・キリストを信じて 何になりますか。

20 何がイエス・キリストのからだですか。

21 キリスト教会では何がなされますか。

22 キリスト教会には、いくつの聖礼典がありますか。

23 信じれば十分であるのに、なぜ 聖礼典があるのですか。

24 洗礼とは何ですか。

25 聖晩餐とは何ですか。

26 だれが聖晩餐のパンと杯にあずかりますか。

27 洗礼を受けたわたしですが、先週もその前も罪深い自分勝手なことをたくさんし、

 人を傷つけてしまいました。こんなわたしは、聖晩餐のパンと杯を受けるに値しません。

 パンと杯を、今回は受け取らない方がいいでしょうか?

28 イエス・キリストは 神の子ですか。

29 あなたは神の子ですか。

30 神は何をなさいましたか。

31 神からの戒め(=律法)を短くまとめて言いなさい。

32 神からの戒めは、あなたをどのように助け、導くのですか。

33 主イエスが教えてくださった『主の祈り』を言ってごらんなさい。

34 「天にましますわれらの父よ」と呼びかけるのは、なぜですか。

35 祈り求めるべき最初の三つの願いを言いなさい。

36 なんのために、そのように祈り求めるのですか。

37 「われらの日用の糧を今日も与えたまえ」という願いは何ですか。

38 「われらの罪を犯す者をわれらがゆるすごとく、

 われらの罪をもゆるしたまえ」という願いは何ですか。

39 「われらを試みにあわせず、悪より救い出したまえ」という願いは何ですか。

40 「国と力と栄えとは、限りなく汝のものなればなり」という願いは何ですか。

41 「アーメン」と言いそえて祈りを結ぶのは、なぜですか。

 

 

 

 

 ☆あなたは 何を信じますか。

★わたしは、父なる神と、

 子なる神イエス・キリストと、

 聖霊なる神を信じます。

                 ⇒ ヨハネ福音書 1:18,コリント手紙(2)13:13

        (「⇒」の聖書箇所をできるだけ開いて、自分の心で読んでみましょう)

 

 ☆あなたは なぜ 神のことが分かるのですか。

★神が 聖書によって教えてくださるからです。

 

     ⇒  ヨハネ福音書 5:39-40,同6:44「父が引き寄せてくださらなければ、

       だれもわたし(=主イエス)に来ることができない」,同6:66,同20:31,

       イザヤ書55:10-11,テモテ手紙(2)3:14-17

 

 

 

【授業①/頭を切り替えよう

 

 聖書によって教えられて、三つの神を信じます。父なる神と、子なる神イエス・キリストと、聖霊なる神を。

  神は私たち人間の知恵や考えをはるかに超えたお方ですから、私たちにはその存在も、どんな御心なのかも分からないはずでした。けれど、神は語りかける神であり、預言者たちや聖書を用いて私たちにご自分のことを教えてくださいます。生身の人間たちの手によって聖書66巻は書かれましたが、それだけではなく それらの人間たちの手と心を道具として用いて、神がご自身の御心を教えてくださいます。その意味で、『聖書は神の言葉である』と十分な信頼を聖書に寄せることができます。神が聖書によってご自身のことを教えてくださる。だから私たちは神を知り、神を心から信じて生きることができます。聖書を開き、「しもべは聞きます。ですから、わたしの心を開いて、あなたの御心をわたしに教えてください」(サムエル記3:2-9,ヨハネ福音書14:6と祈り求めながら読んでいきましょう。

 

 

 もう一つの重要点。『神を信じる』ためには、すっかり頭を切り替えねばなりません。「私なんかに神が信じられるだろうか。どうしたら出来るだろう。どうしたら分かるだろうか。・・・・・・いいや無理だ」と、とくに長年生きてきた年配の方々は頭を抱えます。違うのです。「今はあまり信じられないし、さっぱり分からないけれど、信じたい。分かりたい」と、もし願うなら、神さまが信じさせてくださいます。神さまこそが、こんな物分りの悪い私にも分からせてくださる。『私が信じる。私が分かる。私が~できる』という何十年も体に染みついてきた(わたし中心・人間中心の)モノの考え方から、『神が信じさせてくださる。神が分からせてくださる。神が、こんな私にさえ、~させてくださる』という神中心の考え方へ この方向転換も、私たち人間にはとうていできません。神さまこそが移し替えてくださいます。聖書は証言します、「あなたがたのうちに良いわざを始められたかたが、キリストイエスの日までにそれを完成してくださるに違いない」(ピリピ手紙1:6。期待して、楽しみに待ちながら、「神さま。信じたい、分かりたい。わたしにも信じさせてください。分からせてください」と願い求めましょう。

 

 

 

 

 

 ☆神は たくさんおられるのですか。

★いいえ。ただおひとりです。父なる神と子なる神イエス・キリスト、そして聖霊なる神という三つの区別があり、思いを一つにして働いてくださいます。

この神を、三位一体(さんみ・いったい)なる神といいます。

            マタイ福音書3:17,同11:27,同17:5,コリント手紙(1)12:3

 ヨハネ福音書14:26,ヨハネ手紙(1)4:1-3

 

 ☆あなたは神からの救いとともに、

 ほかからの救いも望みますか。

★いいえ。神にだけ救いを願い、神にだけ仕えます。

             マタイ福音書 4:8-10,申命記6:13,使徒4:10-12,同4:19-20

 【授業②】

タテ並びになっている三つの神さまを心に思い浮かべましょう。まず先頭に、父なる神。その後ろに子なる神イエス・キリスト。そのまた後ろに聖霊なる神。子なる神である救い主イエスは、「父は。父は~」(マタイ福音書11:27と天の御父の御心を私たちに教える。父なる神は、「救い主イエスにこそ聴き従いなさい」(マタイ福音書3:17,17:5と子なる神イエスを指し示す。聖霊なる神は、「イエスは。イエスのなさったことと、その教えは~」と私たちにイエスを教え、イエスを信じさせてくださる。このように三つの神は一つ思いになって働かれます。例えばもし、○△さんが「わたしは主イエスを信じます」と言い、心でも信じるとすると、それは聖霊なる神さまが教えてくださり、そのように信じさせてくださったのです(コリント手紙(1)12:3。ぼくを導いてくれた牧師がそう教えてくれました。聖書に、そう証言されているからです。ぼくも同じく教えます。皆さんも、それを大切な家族や友だちに伝えてあげられると嬉しいですね。なにしろ、聖書がそう教えているのですから。

 

 「三位一体」という言葉は、無理には覚えなくても構いません。「聖書の証言によると、父、子、聖霊なる神という三つの神がおられ、思いを一つに合わせてお働きになる」と知っていてください。この神さまに十分に信頼を寄せて生きることができれば、とても幸いです。

 

 【祈りの習慣を身につけましょう】祈るための約束事はとても簡単です。(1)まず、神さまに向けて呼びかけます。「○○さん」と呼びかけて、人間同士が語り合うようにです。例えば、「わたしたちの父なる神さま」「神さま」「主なる神さま」などと。(2)祈りの末尾に、「主イエスのお名前によって祈ります。アーメン」と唱えて、祈りを結びます。何人かで祈るとき、他の人の祈りにも、皆で最後に「アーメン」と声を合わせます。恵み深い真実な神さまがちゃんと聞いていてくださり、祈りは聞き届けられるという意味です。「主イエスのお名前によって~」も同じで、主イエスが「わたしの名前によって祈るなら、祈りは聞き届けられる」と約束してくださったからです(ヨハネ福音書14:13-14,15:16(3)呼びかけた後、願いや感謝や嬉しかったこと困っていることなど、なんでも神さまに打ち明けます。そして神さまの御心を教えてくださいと願い求めます。そのように祈り続ける中で、神の御心がだんだんと分かってきて、神への信頼が育てられてゆきます。

 

 

 

 

 ☆あなたは すでに救われていますか。

★はい、救われています。

 

 ☆どうしてですか。あなたは罪人ではないのですか。

★はい。わたしは罪人ですし、いまも神に背きますが、

 主イエスを信じる信仰によって、

  ただ恵みによって救われているからです。

             ローマ手紙3:21-28,同5:5-11,ヨハネ福音書3:16,テモテ手紙(1)1:12-17

 

7 ☆神は正しいかたで、罪を憎むのではありませんか。

★そのとおりです。神は罪を憎みますが、罪人であるわたしたちを愛することを決してお止めになりません。

      創世記4:1-15 ,同8:20-22,申命記31:8

【授業③】

 『救い』とか『私は救われている』って何でしょう? それは、どういうことでしょうか? 『救われる』ことを、「神からの祝福と恵みを受けて、しあわせに暮らす」などと普通に思い浮かべることができます。そういうことも含みますが、聖書が語る救いは、「神に逆らう罪から解放され、自由にされて、神にすなおに聞き従って生きる」(ローマ手紙3:21-28,マタイ福音書1:21,ヨハネ福音書1:29,使徒4:12,5:31ことです。また、聖書が語る『罪』は、第一に神さまに逆らって、「私が私が」と強情に、わがまま勝手になることです。

 しかも、人間はだれでも神に逆らう罪人であり、神はその罪人をかわいそうに思って、ただ恵みによって救ってくださいます。救いに関しては、良い行ないをしたかどうかではなく、何の資格もふさわしさも問われず、救い主イエスを信じるかどうかというただ一点だけが問われます。この問答でも、「主イエスを信じる信仰によって、ただ恵みによって救われている」と強調します(ヨハネ福音書3:16,ローマ手紙5:5-11,10:9-13。これこそが、もっとも大切な最重要ポイントです。

 

 

 

8 ☆主イエスは、どんなかたですか。

★まことの神であり、

 どうじに、まことに人間でもあります。

                ピリピ手紙2:5-11,ヘブル手紙2:17-18,同4:14-16

 

9 ☆主イエスは、いつから おられますか。

世界が造られる前から 永遠に おられます。

                 ヨハネ福音書1:1-18,同8:56-58,ヘブル手紙1:1-3

 

10 ☆いつから人間になられましたか。

★聖霊によって処女マリヤのお腹に宿り、人間の体を

 受けられたときからです。そして、人間になったあとでも

  神であることをお止めになりません。

              マタイ福音書1:18-25,ルカ福音書1:26-38,同22:69-70

 

11 ☆主イエスは、なんのために

 神でありながら人間になられたのですか。

★人間として、わたしたちのすべての悲しみと苦しみが

 お分かりになり、神として、わたしたちを

 すべての罪から救い出すためです。

                   ヘブル手紙2:17-18,同4:14-16

 

【授業④】

 救い主イエスの理解として、『まことの神にして、まことに人間』が大切です。初めから、この世界が造られる前から神として存在し、しかも人間になったあとでも神であることを片時も止めない。親しみやすい、身近な、『人間イエス』の側面ばかりが強調されがちですが、神でありつづけるイエスを決して見落としてはなりません。十字架前夜のゲッセマネの祈りにおいても十字架上でも、御父への信頼と従順とはほんのわずかも揺らぎませんでした。「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」(マタイ福音書27:46,マルコ福音書15:34という十字架上での謎めいた言葉も、主イエスの絶望や諦めや嘆きをそこに読もうとするなら、すべてがすっかり分からなくなってしまいます。そうではありません。世々の教会は、『苦しみと嘆きから始まり、神への希望と信頼へと至る詩篇22篇全体を祈りながら、そこで私たち人間の嘆きと喜びを噛みしめ、味わっている』と受け止めてきました。その通りです。だからこそ、救いの御業を完全に成し遂げてくださった救い主に、この私共も十分な信頼を寄せつづけて生きることができます。もし仮に、救い主イエスに十分な信頼を寄せられないなら、その信仰は中身のない形ばかりのものに成り下がってしまうでしょう。自分自身や、他さまざまなものに信頼を寄せ、その人はアタフタオロオロしつづけて、やがて神への信仰を失ってしまうでしょう。これこそが、信仰の決定的な分かれ道です。

 

 問答(10-11は問いかけ、答えています。「主イエスは、なんのために神でありながら人間になられたのですか?」「人間として、わたしたちのすべての悲しみと苦しみがお分かりになり、神として、わたしたちをすべての罪から救い出すためです」。よく味わいつづけましょう。

 

 

 

12 ☆主イエスは、父なる神に逆らったことはないのですか。

★神に逆らう罪を一度も犯しませんでした。

 主イエスに導かれて、わたしたちも 神に逆らうことを

 止めて、神に素直に従うものとされてゆきます。

                        ヘブル手紙4:14-16 ,マルコ福音書14:32-42

                               (ここまで上田教会「こども交読文3」)

 

13 ☆イエス・キリストは どんなかたですか。

★わたしたちを罪から救う救い主です。

         ⇒ マタイ福音書1:18-25,テモテ手紙(1)1:12-17,ローマ手紙6:1-23 ,同8:1-17

 【授業⑤】                   

 

  聖書が語る『罪』とは、神に逆らい、「私が私が」と強情をはることです。その頑固さと強情が周囲の人々を苦しめ、傷つけ、また私たち自身をみじめにさせます。

 

 しかも一人の例外もなく 誰も彼もが頑固で強情で、誰も彼もがとても罪深い。だから『罪のゆるし』は、その頑固さと強情から解放して、神に素直に聴き従って生きることができるようにしてくださること。まず救い主イエスこそがそのように生きてくださいました。私たちも、『主イエスに導かれて、わたしたちも神に逆らうことを止めて、神に素直に従うものとされて』ゆきます。ゲッセマネでの主イエスの祈りのように、私たちも「私の願いどおりではなく、父よ、あなたの御心のままになさってください。御心にかなって生きることを、私にも願い求めさせてください」(マルコ福音書10:15,14:36,ローマ手紙12:1-2と生きることができます。幸いは、ここにあります。

 

 

 

14 ☆なぜ 主イエスをキリストとおよびするのですか。

★父なる神さまからつかわされ、

 聖霊とつとめをおうけになったからです。

             ヨハネ福音書5:30-40,同6:26-40,マタイ福音書3:16-17

 

15 ☆主イエスのつとめは何ですか。

★預言者、大祭司、王の王です。

                       ヘブル手紙1:1-3,同2:17-18,同4:14-16,マタイ福音書28:18-20

 

16 ☆主イエスの預言者のつとめは何ですか。

★神の永遠のみこころを お教えくださいます。

                マタイ福音書17:1-5,ヨハネ福音書1:18,同14:6-17

 

17 ☆主イエスの大祭司のつとめは何ですか。

★ご自分のお体を十字架にささげて、わたしたちの罪の罰を

 うけてくださり、天で わたしたちのために父なる神さまに、とりなしていてくださいます。

                   ヘブル手紙2:17-18,同4:14-16,同9:11-28

 

18 ☆主イエスの王のつとめは何ですか。

★すべての人と教会を治めるために御言葉をお語りくださり、聖霊をお送りくださいます。また、わたしたちを守ってくださいます。

        マタイ福音書28:18-20,ルカ福音書10:18-20,ヨハネ福音書14:25-27,同20:19-23

【授業⑥】                         

 

  主イエスは、父なる神さまから『救い主』というお働きを与えられ、この世界に送られてきました。この世界を救う働きは、『預言者、大祭司、王』という3つの中身をもっています。『預言者』として救い主イエスこそが神の御心を教え、『大祭司』としてご自分のお体を十字架にささげて私たちの罪のあがないを成し遂げ、『王』として御言葉と聖霊によってキリスト教会とこの世界すべてを治めてくださいます。

また、主イエスを信じるすべてのクリスチャンたちは主イエスの弟子とされて、同じく、この世界に対して『預言者、大祭司、王』という3つの中身をもって働きつづけます。「ええ、私にそんな難しそうな仕事ができるかしら?」と心配になりますか。大丈夫です。神さまがどんな御心なのかを教えられ、どんな神さまでどんな願いをもって働いておられるのかも知らされています。ですから、それぞれの分に応じて、口下手は口下手なりに、「こういう神様ですよ」と周囲の人々に知らせてゆく。これが預言者の役割。神と人間、人間と人間との間に立って仲直りと平和のための使者として、祭司の役割を担って働く。また神の御心にかなった世界と私たちになってゆくために、王の役割さえ担って生きてゆく。宗教改革者は、「クリスチャンは地上のすべての支配者や権力者の上に立つ王であって、何者にも膝を屈めず、言いなりにされない。しかもクリスチャンは同時に自由なしもべであって、心低く、誰にでも奉仕する」(『キリスト者の自由』Mルター,1520年)と告げました。主イエスの最初の弟子たちも、主イエスの名によって語ることも説くことも一切してはならないと権力者たちに脅されても、「神に聞き従うよりも、あなたがたに聞き従うほうが、神の御前に正しいかどうか判断してもらいたい。私たちとしては、自分の見たこと聞いたことを語らないわけにはいかない」(使徒4:19と平然と立ち向かいました。この世界全体も私たちも、罪の支配から日毎に救い出されつづけて、神の御心にかなって生きるためにです。救い主イエスこそが先頭に立って働き、私たちもその後につづいて、主イエスの弟子として毎日毎日を生きるのです。

 

 

19 ☆あなたはイエス・キリストを信じて 何になりますか。

★かしらイエス・キリストの からだのえだに なります。

 

20 ☆何がイエス・キリストのからだですか。

★キリスト教会です。

       コリント手紙(1)12:12-27,ヨハネ福音書15:1-8,エペソ手紙1:23,同4:12,同5:30

 

21 ☆キリスト教会では何がなされますか。

★主の日ごとの礼拝で み言葉が語られ、

 聖礼典がとりおこなわれ、

 わたしたちは神の国の福音を学ばせられます。

                コリント手紙(1)11:23-26,使徒2:36-42,マタイ福音書11:28-30

 

 【授業⑦】                        

 

  あなたはイエス・キリストを信じて 何になりますか?」「かしらイエス・キリストの からだのえだに なります」「何がイエス・キリストのからだですか?」「キリスト教会です」。救い主イエスを信じる者たちは、このお方との深くて強い結びつきの中に据え置かれます。その結びつきこそがキリスト教会である、というのです。このことを知っておきましょう。最初のうちは、このことはなかなかピンと来ません。「ああ、本当にそうだ」とよく実感できても出来なくても、まずは、そういうことだと知っていることが大事です。そのためにこそ、礼拝の中で、また小さな集会の中で聖書を読み、その説き明かしを聴きつづけていきます。

 「主イエスとの強い結びつきの中に据え置かれる」と言いました。主イエスは、ご自分が一本の木で、私たち一人一人がその木につながっている一本一本の枝だとおっしゃいました(ヨハネ福音書15:1-5。「わたしにつながっていれば、その人は実を豊かに結ぶようになる。わたしから離れては、あなたがたは何一つできない」。「わたしから離れては~何一つできない」。薄情で冷たい言い方に聞こえるかもしれません。主イエスこそが、キリスト教会とすべてのクリスチャンにとって頼みの綱なのです。この主に、十分に信頼を寄せることができるかどうかが分かれ道です。また、「わたしから離れては~何一つできない」には、主の慈しみと愛情深さが込められています。つまり、主イエスとつながっていさえすれば誰でも何でもできるし、豊かに実を結ぶようになる。同じヨハネ福音書14:6でもよく似た言い方がされます。「わたしは道であり、真理であり、命である。誰でもわたしによらないでは、父のみもとに行くことはできない」。つまり、主イエスという一本道を通りさえすれば、誰でも、きっと必ず天の御父のもとに辿り着くことができる。だから、わたしという道をあなたも通りなさいと。

 また、主イエスはご自分がわたしたちとつながっていると約束してくださっただけではなく、わたしたちに、「あなたがたはわたしとつながっていなさい」とお命じになりました。クリスマス時期などの混雑したデパートの中を歩いているようです。子供の手をしっかり握りながら、母親はその子に「手を離しちゃダメですよ、分かったわね」と言い聞かせます。母親がその子の手をしっかり握っているだけではなく、その子にも「手を離しちゃダメですよ」。素敵なおもちゃやお菓子の数々がその子の目も心も奪います。しかもとても混雑しています。気もそぞろに陳列棚を眺めて回るうちに、その子は迷子になってしまうかも知れません。子を愛する母親のように、「わたしにつながっていなさい」と主イエスはおっしゃいます。礼拝に出席するときにも、聖書を読むときにも祈るときにも、普段のいつもの生活の中でも、「主イエスとつながっていよう。つながっていたい」と願い求めて生きる。そのことが、とても大切です。

 

 

22 ☆キリスト教会には、いくつの聖礼典がありますか。

★二つです。それは、洗礼と聖晩餐です。

               コリント手紙(1)11:23-26,マタイ福音書11:28-30

 

23 ☆信じれば十分であるのに、なぜ 聖礼典があるのですか。

★弱いわたしたちを助け、支えるためです。

 救われていることを確信させ、信仰のうちに

 わたしたちを守り、養い、成長させつづけるためにです。

                   ヨハネ福音書6:52-58,エペソ手紙4:12-24

 

24 ☆洗礼とは何ですか。

★主イエスを信じる者がキリスト教会に迎え入れられ、

 罪のゆるしをうけ、

 神さまのまえで新しく生きる者とされます。

 

                        ローマ手紙6:1-23 ,同8:1-17

 

【授業⑧/古い罪の自分と死に別れる】    

 

  なぜ聖礼典があるのか、と質問しています。それに答えて、「弱い私たちを助け、支えるため。救われていることを確信させ、信仰のうちに私たちを守り、養い、成長させつづけるために」。洗礼と聖晩餐、二つの聖礼典です。神の教会に迎え入れるための、ただ一回の洗礼。私たちを養い、成長させつづけるための、繰り返し受けつづける聖晩餐。誰一人の例外もなく、私たちはみな、心も体もとても弱いのです。だから、支えと助けがなければ簡単に倒れてしまいます。神さまを信じる心も同じで、信仰が弱くなって倒れてしまわないようにと、神さまが支えの手段をいくつも与えてくださっています。一回一回の礼拝がそうであり、聖書を読むことも祈りも、教会の集会や交わりも、私たちの信仰を支えるための手段や道具として神さまが用意してくださいました。

 神に逆らう罪の奴隷状態から解放され、神のもとへと立ち返りつづけ、神の御前で新しく生きることが積み重ねられてゆく。その具体的な中身と在り方は、ローマ手紙 6:1-8:11に詳しく説き明かされます。

 

      ローマ手紙 6:1-23  古い罪の自分と死に別れる

               7:1-25  罪の法則

             同 8:1-11  神の霊の働きによって

 

もし、わたしたちが、彼に結びついてその死の様にひとしくなるなら、さらに、彼の復活の様にもひとしくなるであろう。わたしたちは、この事を知っている。わたしたちの内の古き人はキリストと共に十字架につけられた。それは、この罪のからだが滅び、わたしたちがもはや、罪の奴隷となることがないためである。それは、すでに死んだ者は、罪から解放されているからである。もし、わたしたちが、キリストと共に死んだなら、また彼と共に生きることを信じる(ローマ手紙 6:5-8と。あなたも僕も誰でも、心に悪い考えや悪い性分を抱えていますね。なんだか意地悪だったり、頑固で強情だったり、優しい親切な心になれなかったり、すぐに怒ったり恨んだりしてしまう心を。臆病で、生ズルイ考えを。その罪の言いなりにされないで生きられるなら、とても嬉しいですね。自分自身のその悪い考えや性分をねじ伏せ、罪と死に別れて生きることができるのです。『もし~なら、~となる』と5節と8節で二度念を押されています。つまり、『もし~ではないなら、~とはならない』と。しかも、罪に死んで神に生きている自分であると『認むべきである』11節)と。認めようとしない自分がいて、神のお働きの邪魔をし、逆らおうとする自分がいるからです。『古い罪の自分と日毎に死に別れる』ことと『神の御前に、新しく生きはじめること』を、もちろん神こそが、この私たちのためにも成し遂げてくださる。自分自身でもそのことを分かっていて、ちゃんと認めていることが大事です。その中身を、何度も繰り返して噛みしめ、よくよく味わいつづけましょう。「あなたがたのうちに良いわざを始められたかたが、キリスト・イエスの日までにそれを完成してくださる」(ピリピ手紙1:6

 

 

 

25 ☆聖晩餐とは何ですか。

★イエス・キリストがご自身の体と血とにあずからせることによって、わたしたちをしっかりと生きる者とし、

 救われた者の喜びと希望のうちに養ってくださる食卓です。

              ヨハネ福音書6:52-58,ルカ福音書22:14-34,コリント手紙(1)11:23-29

 

26 ☆だれが聖晩餐のパンと杯にあずかりますか。

★洗礼をうけ、主イエスを信じる者とされたものたちです。

 恵みに値しない、ふさわしくないわたしたちですが、

 それでもなお、ただ神の憐れみによって救われ、

 ただ憐れみによって この食卓に招かれています。

 このパンと杯こそが病人のための良い薬であり、

 罪人には慰めであり、

 貧しいものには格別な贈り物だからです。

                ローマ手紙3:21-28,同5:5-11,テモテ手紙(1)1:12-17

 

       Jカルヴァン「キリスト教綱要」41741-42節,

授業⑨/山登りのための準備】

 

  聖晩餐のときに、繰り返して説明していることです。

 この食卓に集う者たちのためのルールは2つ――

 

 1 (第一の最も大切なルール)何の区別も分け隔てもない。

誰もが、この憐れみの食卓へと招かれています。

 2 これはただ食パンを切り分けたものと、ぶどうジュースというわけではなく、十字架の上で引き裂かれた主イエスの体であり、流された主イエスの血潮です。主イエスを信じる信仰によってしか理解することも受け取ることもできない 『目に見えない食べ物、飲み物』です。

 

それで、まだ洗礼を受けていないかた、主イエスを信じて生きていこうと決心していないかたには、今日のところはこのパンと杯をお渡しすることができません。洗礼を受けている方々には、どこの教会、どの教派団体に属する方も、この食事にあずかることができます。

  コリント手紙(1)11:27-29では、「だから、ふさわしくないままでパンを食し主の杯を飲む者は、主のからだと血とを犯すのである。だれでもまず自分を吟味し、それからパンを食べ杯を飲むべきである。主のからだをわきまえないで飲み食いする者は、その飲み食いによって自分にさばきを招くからである」。罪深さをなお根強く抱えており、恵みに値しない、ふさわしくない私たちです。ふさわしくない私たちだとよく分かって、へりくだった低い心になることこそが、神の御前での最善のふさわしさです。自分を吟味し、主のからだをわきまえるとは、そのことです。聖晩餐のパンと杯にあずかり、み言葉によって養われつづけることによって、神の憐れみによって、だんだんと自分自身と主の教会のことをわきまえるようになり、ふさわしい私たちへと作り替えられてゆきます。「ただ神の憐れみによって救われ、ただ憐れみによって主の食卓に招かれ、養われつづけている私たちだ」と、パンと杯にあずかる度毎に習い覚えさせられてゆきます。

 

 質問などがありますか? ここまでで、キリスト教信仰の中身がおよそ分かっただろうと思えます。

 誰でも、人が生きてゆくことは『山登り』に似ています。素敵な景色や出来事に出会ったり、わあ~っと心躍るような嬉しいことがたくさんあって、苦労して登ってゆく甲斐があります。誰のための山も。それでも簡単なハイキング程度ではなく、けわしく危ない場所も折々にある、長く手ごわい山登りです。すると、どういう用意が必要でしょう。リュックにお弁当や水筒、おやつ、雨降り用のカッパ、あたたかいセーター、毛布などを入れておきます。けわしい崖道もあると思えば、丈夫なロープも持っていきます。道案内の地図、杖も役に立つかも知れません。ある人たちは、この山登りのために、自分のリュックの中に『神さまを信じていきてゆく』という道具を入れました。この神さまこそが頼りになり、危険なときにも神さまこそが必ずきっと助けてくれると知ったからです。自分のリュックに何を入れてもっていくのかは、自分で判断して、自分で決めます。あなたの一生をかけての山登りが心安く、嬉しく、素晴らしいものになりますように。どうぞ、よい日々を。 

 

 

 

 

27 ☆洗礼を受けたわたしですが、先週も罪深い自分勝手なことをたくさんし、人を傷つけてしまいました。こんなわたしは、聖晩餐のパンと杯を受けるに値しません。パンと杯を、今回は受け取らない方がいいでしょうか?

★いいえ、ちがいます! すべてのクリスチャンもふくめて、誰もがとても罪深いのです。「罪深さや自分勝手さが無くなって十分に清くされてから聖晩餐を受けましょう」などと考えるなら、わたしたち人間は200年たっても300年たっても、準備が整いません。皆すべての人間がこの恵みを受け取る資格がない、と気づきましょう。しかも、そのうえで恵み深い神さまは、その値しない、ふさわしくない、資格のない者たちを恵みと祝福の中へと招き入れてくださいます。とても罪深くて、恵みに値しないあなたこそが、どうぞぜひ安心してパンと杯を受け取ってください。神さまの恵みの中で養われ、罪から救い出され、清められ、成長してゆくためにです。

     テモテ手紙(1)1:15, ローマ手紙3:21-27,へブル手紙4:14-16,

 

【授業⑩/恵みにふさわしくない罪人が招かれた】

 

 聖晩餐のときに読まれるコリント手紙(1)11:27以下には、とても恐ろしいことが書かれています。「だから、ふさわしくないままでパンを食し主の杯を飲む者は、主のからだと血とを犯すのである。だれでもまず自分を吟味し、それからパンを食べ杯を飲むべきである。主のからだをわきまえないで飲み食いする者は、その飲み食いによって自分にさばきを招くからである」と。そこには道理がありますが、道理の中の半分です。残りの、もっと大きな福音の道理は、『そのふさわしくない、弁えのない罪人を、けれども神は憐れんでゆるし、迎え入れ、ご自分の子供として慈しみ養ってくださる』ということです。自分に裁きを招くことにもなり、しかし同時に、聖書のみ言葉を聞いて主の憐れみの食卓にあずかることによって、だんだんと自分自身と主の体とを弁える新しい人間に作り替えられてゆく。ここに希望があります。

 

 

  神を知る知識も、信じる信仰も、まったく同じです。「今はまだ、あまりよく分からない」「なかなか信じられない」私たちも、もし「分かりたい。信じたい」と願うなら、その願いはかなえられます。思いやり深い、真実な神が生きて働いておられるからです。あなたは、この神を分かりたいですか? あなたは、この神を信じて生きてゆきたいですか? ――もしそうなら、神さまはあなたをご自分の子供として、クリスチャンとして、喜んで迎え入れてくださいます。本当のことですよ。

 

 

28 ☆イエス・キリストは 神の子ですか。

★永遠の神の御子です。

           ⇒ ヨハネ福音書1:1-18,ヘブル手紙1:1-3

 

29 ☆あなたは神の子ですか。

★イエス・キリストのおかげで神の子にされました。

                                ローマ手紙8:14-17,ガラテヤ手紙3:4-7

 

 30 ☆神は何をなさいましたか。

★天と地と その中にあるすべてのものを造り、わたしたちに

 御子イエス・キリストを、おつかわしになりました。

                     創世記1:1-2:3,ヨハネ手紙(1)4:7-10,ヨハネ福音書3:16-17

                    (ここまで上田教会「こども交読文1」 問20-25は、これに付加した)

 

 

  【授業⑪/「神の子供たち」と「神の独り子イエス」】

 

   あなたは神の子ですか」と質問されて、「はい。イエス・キリストのおかげで神の子にされました」と答えています。主イエスを信じる者たちは、「主イエスを信じる」というただそれだけで、恵みによって神の子供にしていただきました。しかもその上で、救い主イエスは「神の子」であり、「神の独り子」であると語られつづけます。主イエスを信じる人たち皆が「神の子」なら、もうわざわざ主イエスを「神の独り子」などと言わなくてもいいはずなのに。いいえ、そうではありません。『主イエス・キリストのおかげで神の子にされた』というところがとても大切です。主イエスを抜きにしては、私たちが神の子供たちとされることも、神を『父よ』と呼んで、すっかり信頼して、天の御父に願い求め、聞き従いながら生きることも決してありえなかったからです。

 それで、主イエスを信じる者みなが「神の子供たち」。しかも同時に、主イエスこそ「永遠の神の御子。神の独り子」なのです。先輩の牧師は、いつもこう祈っていました。「イエス・キリストの父なる神さま、それゆえ確かに、主イエスの救いの御業をとおして私たちをあなたの子供たちとして迎え入れてくださった父よ。心から感謝をいたします」と。その呼びかけを聞くたびに、とても嬉しい気持ちがしました。ぼくも、同じくそのように祈り、そのように心に刻みつづけています。

 

 

 

31 ☆神からの戒め(=律法)を短くまとめて言いなさい。

★はい。いちばん大切な第一の戒めは、「心をつくし、精神をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛せよ」です。

 第二には、「自分を愛するように、あなたの隣り人を愛せよ」です。

         マタイ福音書22:34-40,出エジプト記20:1-17,申命記5:6-21

 

32 ☆神からの戒めは、あなたをどのように助け、導くのか。

★自分たちの罪深い本性をよく分からせ、

 それだけいっそう熱心に罪からのゆるしと救いをキリストの中に求めさせ、神の御心にかなって生きようと願い求めさせます。

                   ローマ手紙8:14-17,ガラテヤ手紙3:4-7

 

【授業⑫/律法の3つの働き方】

 第31の問答が大切です。律法は、このように3つの働き方をします。まず、(1)自分自身の罪深さを知るため。次に、(2)罪からの救い・解放を求めさせ、神の憐れみを願わせ、そのように救い主イエスへと向かわせるため。最後に、(3)救われた者たちが神への感謝と従順に生きるための生活の「めあて」として用いられる。

 

  とくに、(1)は難しいです。ルカ福音書 18:9-14を味わってみましょう。「自分は正しい人間だと勘違いして、うぬぼれて、他人を見下している人」9節)とは、とくには私たちクリスチャンのことですし、誰でも、こういうふうになってしまいやすいのです。このパリサイ人がどんなふうに悪いのか。なぜ、こうなってしまったのかを、よく味わっておきましょう。自分自身にもこういう所がある、と気づけると良いですね(ローマ手紙10:3は「彼らは神の義を知らないで、自分の義を立てようと務め、神の義に従わなかった」と証言します。「自分は正しい。正しい」と言い張り、強情になってしまうこと。これこそが、罪の大きな根っこです)取税人は、神に背いて自分勝手になっていた自分に気づいています。ここが入口。次に、罪人をその罪から救い出してくださる憐れみ深い神さまだと分かるなら、この彼も私たちも、(2)(3)の道筋を進んで神を信じて生きる幸いな人になれるかもしれません。つまり、『自分自身の罪深さ』を認め、『罪人をその罪から救い出してくださる憐れみ深い神さま』だと分かること。この2点を受け止めることができるかどうかが、大切なカギです。

 

 

 

33 ☆主イエスが教えてくださった『主の祈り』を言ってごらんなさい。

★天にましますわれらの父よ。

 願わくは御名をあがめさせたまえ。

 御国を来らせたまえ。

 御心の天になるごとく、地にもなさせたまえ。

 われらの日用の糧を今日も与えたまえ。

 われらの罪を犯す者をわれらがゆるすごとく、

  われらの罪をもゆるしたまえ。

 われらを試みにあわせず、悪より救い出したまえ。

 国と力と栄えとは、限りなく汝のものなればなり。アーメン

                         マタイ福音書6:9-,ルカ福音書 11:2-

 

34 ☆「天にましますわれらの父よ」と呼びかけるのは、なぜですか。

★父なる神に対する信頼を私たちの心によくよく刻ませるためです。

 天の御父は、キリストを通して私たちの父となり、私たちをご自分の子供として迎え入れてくださいました。しかも天の御父こそが、他の何よりも高く力をもっておられるからです。

                   ローマ手紙8:14-17,マタイ福音書11:25-27,同28:16-20

 

【授業⑬/父なる神への信頼】                        

  父なる神に十分な信頼を寄せることができるかどうかが、とても大切な別れ道となります。ここがポイント。

 

 『天におられる』とは、場所のことではなく、むしろ他の誰よりも何よりも権威と力をもつ神であることを言い表しています。その神が、私たちを『ご自分の子供』として迎え入れ、自分の子供として変わることなく愛し、養い育て、子供として支えとおしてくださいます。主イエスが十字架にかかる前の晩に、ゲッセマネの園で、「アバ、父よ」と父なる神に呼びかけ、親に一途に信頼する小さな子供の心で苦しみと悩みに耐えぬいたことを思い出せますか(マルコ福音書14:32-42参照)。主イエスを信じるクリスチャンも、そのように悩みや心細さや苦難に立ち向かい、それらを耐え、心安く晴れ晴れとして乗り越えてゆくことができます。このことを、よく理解し、味わいつづけて生きることできると、とても幸いです。ですから、この呼びかけにつづく6つの願いのうち、最初の3つは『父なる神への信頼』をこそ願っています。また末尾の讃美は、『国も権力も栄光もどこまでも限りなく父なる神のものですから』と心に刻み、噛みしめています。そうした『父への信頼』に包まれてこそ、第4、第5、第6という私たちのための具体的な願いを心から願い求めることもできるのです。

 

 

 

35 ☆祈り求めるべき最初の三つの願いを言いなさい。

★「御名をあがめさせたまえ。御国を来らせたまえ。

 御心の天になるごとく、地にもなさせたまえ。」。

 

36 ☆なんのために、そのように祈り求めるのですか。

★神の国の福音が人々に告げ知らされ、神の御心に十分な信頼が寄せられ、また神を信じる者たちが御心かなって生活してゆけるためにです。

                   ルカ福音書2:14,ローマ手紙12:1-2,16:25-27

 

授業⑭】                    

 

  前回のおさらいですが、祈りの呼びかけも最初の三つの願いも、『天の御父への信頼』をこそ願い求めています。聖書の神への信仰をもつことができるかどうか、その信仰の生涯が幸いで祝福に満ちたものとなるかどうかが、この一点にかかっています。もし、御父に十分に信頼できるなら、よく聞き従うことができ、願い求め、幸いと助けを受け取り、さらに強く深く信頼を寄せ、ますます聞き従って生きる者とされてゆきます。そうではないなら、信じたことが無駄になってしまうでしょう。

 

 聖書の初めから終わりまで、ずっと、「恐れるな。恐れるな」と神の民は神から励まされつづけます。神の民がずっと臆病で弱虫でズルくありつづけた理由は、神になかなか信頼しきれないで、脇道へ脇道へとそれてゆくからです。もし、神に十分に信頼できないなら、『神ではない様々な人やモノを恐れつづけて』生きるほかありません(出エジプト記14:13-14,申命記31:8,イザヤ書30:15-18,31:1-3,43:1-3,46:1-4,サムエル記上8:1-8,マルコ福音書9:20-24,ヨハネ福音書16:29-33,使徒4:19-20。周囲の人々の顔色をうかがって言いなりにされたり、いじけたり、かと思うと人を見下してバカにしたり、いじめたり乱暴をしたり。それは、とても心細く淋しく惨めな生きざまです。この問答の4でも、「あなたは神からの救いとともに、ほかからの救いも望みますか」「いいえ。神にだけ救いを願い、神にだけ仕えます」と答えています。もし、神を信じる信頼も信仰も自分には足りないと気づくなら、「わたしの信仰を増し加えてください。必要なだけ十分に神に信頼できるようにならせてください」と、あなたも祈り求めましょう。願いはかなえられます。本当にね。

 

 

 

37 ☆「われらの日用の糧を今日も与えたまえ」という願いは何ですか。

★私が自分にとって無くてはならないものしか欲しがらず、欲張らないためです。また無くてはならないすべて一切を、ただ神さまからこそ受け取ろうと期待するためにです。

                   出エジプト記16:1-12,箴言30:7-9,申命記8:1-20

 

【授業⑮】                         

 

  ここでも、やはり天の御父への信頼です。願うなら、そうなる。願わないなら、そうはならない。自分自身でも、親兄弟や友だちやほかの人間たちやモノでも、それらへの信頼はほどほどのことで、あまり当てにできません。けれど神に十分に信頼を寄せて生きられるなら、とても安心です。そうではないなら、心細くて、いろいろなものが恐ろしく感じられて、ビクビクオドオドしながら暮らすことになるでしょう。臆病にもなり、意地悪にもなり、ひがみっぽくもなるかも知れません。神への信頼は、朝昼晩の食べ物のようなささいなことから始まります。出エジプト記16章を読みましたね。12節)「あなたがたは夕には肉を食べ、朝にはパンに飽き足りるであろう。そうしてわたしがあなたがたの神、主であることを知るであろう』。

 

  そのようにして、神さまへの信頼と感謝がわたしたちの中に積み重なってゆきますように。その信頼と感謝の上に立って、わたしたちも一日ずつを暮らすことができますように。

 

 

 

 

38 ☆「われらの罪を犯す者をわれらがゆるすごとく、われらの罪をもゆるしたまえ」という願いは何ですか。

★罪から、日毎に救い出していただくためにです。

 また、互いにゆるしあって平和に生きる私たちとなるためにです。

      ⇒マタイ福音書18:21-35,テモテ手紙(1)1:12-17,ヨハネ福音書20:19-23

 

  【授業⑯】                         

 

  たぶん、この願いが、主の祈りの6つの願いの中で一番わかりにくいでしょう。わたしたちが他人の罪や落ち度や悪い行ないをゆるしてあげることと、わたしたち自身の罪や落ち度や悪い行ないを神さまにゆるしていただいていることとは、深く結びついています。切り離すことのできない1つのことだと言っていいほどです。けれど、「ゆるしますから、私のこともゆるしてください」という取り引きや条件ではありません。順番が違います。(1)まず、神さまがこの私の罪や落ち度や悪い行ないを、すっかりゆるしてくださった。だから、(2)わたしたちも今では、他人の罪や落ち度や悪い行ないをすっかりゆるしてあげることができる、という順番です。神の恵みの順番・恵みの秩序です。その証拠に、神さまから、ゆるされないはずの大きな罪と落ち度をゆるしていただいていると覚えているからこそ、他人の罪と落ち度をゆるしてあげることもできます。ゆるされていることを忘れてしまうとき、わたしたちは心が狭く貧しくなり、他人に厳しく、冷たく、薄情になってしまいます。ゆるせないで、いつまでも怒って、恨みに思って、見下しつづけるので、自分がどんどん貧しくなってしまいます。マタイ福音書18:21-35の『仲間をゆるせない悪いしもべ』のたとえ話が分かりますか。心が少しは痛みますか。あのしもべは、いったい誰のことでしょう?

 

 

 

39 ☆「われらを試みにあわせず、悪より救い出したまえ」という願いは何ですか。

★私たちを罪に導くあらゆる欲と悪い思いから自由にしてくださるように、私たちを脅かす悪の力から守ってくださいますように、という願いです。

       ルカ福音書4:1-13,マルコ福音書14:32-42,コリント手紙(1)10:1-13

 

授業⑰/悪とは何か?】                                

 

  このように願い求める理由は、まず、『弱い私だ』と自分でよく分かっているからです。次に、『その私を困ったことから助け出し、いつでも何が起きても支えてくれるのは神さまだけだ』と知っているし、信じてもいるからです。だから、どんな困ったことからも、神に背いてしまう誘惑や悪からも救い出してくださいと願っています。神を信じていてもいなくても、いろいろな困ったことや、つらく苦しいことはたびたび起こります。それでもなお、神さまこそが救い出してくださると信頼しているのです。

 もう1つ。『悪』とは何か、その正体は何か。世界中や自分のまわりに悪者たちがいるというだけではなく、(1)神を押しのける人間中心の世の中の在り方と、(2)悪魔の力と、(3)自分自身の中にもあるワガママ勝手な、臆病で生ずるくて意地悪な悪い思いや願い(=肉の思い)です。それらの言いなりにされないように、それらに打ち勝って、神の御心に従って生きることができますようにと願い求めています。しかも、願い求めつつ生きるようにと神から命じられています。

   ⇒「わたしたちの絶対の敵、つまり悪魔とこの世と私たち自身の肉は、絶え間なく

    わたしたちを攻め立てますから~」(ハイデルベルク信仰問答 問1271563年)

 

 

 

40 ☆「国と力と栄えとは、限りなく汝のものなればなり」という願いは何ですか。

★父なる神に、すべて一切の権威と力をお返しし、十分な信頼を寄せ、それゆえ聴き従い、神にこそ願い求めて生きるためにです。

                 ピリピ手紙2:5-11,ユダ手紙24-25,ローマ手紙8:18-39

 

41 ☆「アーメン」と言いそえて祈りを結ぶのは、なぜですか。

★神こそが真実で憐れみ深いかたであり、

 私たちもその神ご自身の真実さにこそ、すべて一切をゆだねて生きるためにです。

 

        ⇒コリント手紙(2)1:20,テモテ手紙(2)2:11-13「わたしたちが不真実であっても、彼(=イエス・キリスト)は常に真実である」,黙示録3:14-22「アァメンたる者、~神に造られたものの根源であるかた(=主イエス)が、次のように言われる」,ローマ手紙8:26-「わたしたちはどう祈ったらいよいか分からないが、御霊みずから~」,讃美歌85「主のまことは」

 

 【授業⑱/真実はどこにあるか?】 

 

  末尾のアーメンは、「真理であり、確実」という意味です。けれど問題となるのは、その真理・真実、確実さはどこにあるのかという一点です。世々のキリスト教会には、2つの理解が並んで立ちつづけます。(1)私たち人間の側にあるという理解。(2)そうではなく、ただただ神ご自身の側にだけあるという理解。残念ながら、(1)の理解が多数を占めるようです。人間中心の物の考え方が主流となる時代や社会では、キリスト教会の信仰の中にもそうした考え方が忍び込みます。つまり、「クリスチャンが正しい信仰理解をもって、誠実に祈るとき、その誠実さやふさわしさを受け止めて、皆でアーメンと唱和する」などと教えられるかも知れません。けれど、心を鎮めてよくよく考えてみますと、正しい信仰者など一人もいないように、正しく適切な祈りや、ふさわしい祈りの精神や姿勢など、どこを探しても見当たるはずがないのです。もし、自分たちの正しさやふさわしさを言い張るならば、わたしたちもパリサイ人的な偽善者に成り下がり、他人を裁いて見下しつづける冷酷な淋しい審判者に成り果ててしまうでしょう。それは恐ろしいことです(ヨハネ手紙(1)1:6-10,ローマ手紙3:21-28,8:26-,ルカ福音書18:9-14なぜ、その祈りが聞き届けていただけるのか? 「わたしの名によって祈るなら、聞き届けられる」(ヨハネ福音書15:16,16:24と主イエスが保証してくださったからですし、神ご自身が真実で、憐れみ深く、慈しみに富む方だからです。ただただ神ご自身の真実さに向けて、どんなふつつかで未熟な見当違いな祈りのためにも、私たちは大きな声で晴れ晴れして「アーメン」と心から唱和することがゆるされます。祈りもそうであり、信仰をもって生きる生涯もそうであり、ふつつかで罪深い私たち一人一人も、そのように神に信頼し、神により頼んで幸いに生きて死ぬことができます。神さまからの憐れみと平和が、あなたのためにもありますように。